モノトーンの伝説日記

スプラトゥーンが大好き。

<mini> 〈重愛〉というテーマ

 寝る前にまどマギ新編のことについて考えていたら,書き留めたいことが出てきたので,ノートPC の電源引っこ抜いて今ブログを書いている。

 自分は「重たい愛」と書いて〈重愛〉(じゅうあい)という言葉を作りました。

 調べると似たような字面に「endearment」や「愛重(あいちょう)」という言葉がありますが,上の定義としては,「募る想いが大きすぎて,果てに重すぎる愛の形」という感じでしょうか。

 新編クライマックスを見たときに思ったことは,「あ,これ認識の差異から生まれるやつか」って思いました。

 よくね,「〇〇は罪深い人だ」みたいな認識あると思うんですよ。アニメについて具体的には話さないです(と言ってもこのテーマは以前ほかのアニメで見たことがある)けど,たとえば人物 A「タケル」がとても優しい人で,どの人にもなりふり構わず優しさを振り撒くんですね。困っている人が入れば助ける。まあ人間誰しもが “共通認識として” 困っている人を助けることは〈いいこと〉と思っているわけですね。でも,助けられた人物 B「サヤ」にとっては「わ,私を助けてくれる人なんて初めて //」って思うわけですよ。まずここで認識の相違が起こるわけですね。だけど,助けたタケルは人を助けることを特別に思ってないので,「いやいや,気にすることないよ」程度に思うわけですけど,そういうことをされているうちに,サヤにおける心中はその出来事は神格化されるわけですよね。

 自分としては,〈重愛〉が正しいか否かというのは実は今だに結論を言えてないんですけど,唯一これだけは言えるんですよね。そんな恋をふっかけられても自分は耐えれる気がしない。それに見合うだけの人物じゃない,って。

 まあいわゆるまどマギだと割とまどかちゃんっぽい感じの人物なのかな,って自分は思ったりしますね。それこそ,リアル生活で心閉ざすまではもっと人に対して優しかったのかなーって思います。だから,まどマギのアニメ版(劇場版前後編)ってのは,すごい自分のメンタルとシンクロする部分があって,必要以上に自分を自分で傷つける行為をしてきた記憶はあります。

 だから,割とほむらちゃんの「周りのことが悲しむのわかってるの?」みたいな言葉は結構刺さるってわけですね。わかってて決断することもありますけどね,ってなりますし。

 自分はまどかちゃんに惹かれるのは一種のシンパシーを感じるからかも知れません。何もできないって自分では本当に思っているまどかの気持ちよくわかります。自分は凡人です見たいな。

 まあこれは他のアニメとかで思いついた気持ちですけど,できる人が必要以上に自分を蔑んでいる姿ってのは相手にとって「俺できるぜアピール」にも見えるみたいな視点もあって,なるほどな,って思ったりもしたので,必要以上に自分がダメなやつというのはそれ以来あまり言わなくなった気がしますね。

 ただ,今でも内心は自分なんかよりすごい人がいっぱいいるって思っててそれこそまどかの境遇に近い自分のメンタルってのがありますね。

 あまりこういうことは書いたことないんですけど,女の子に生まれたかった,って思うことがよくありますね。むしろ,自分が女のメンタルを持っているんじゃないか? って思うこともよく。まあそんなことがあっても,結局外見が女になっても心は満たされるものじゃないし,たとえ心が女だろうが,この世の中を男として生きていくわけですけどね。

 最後にまとめますと,思考って最大の娯楽だな,って本当に思いますね。考えることのできる作品は本当に好き。「口をポカーンと開けて見てればいい作品」は一度みれば満足って思いますけど,やっぱ思考できるものって楽しいなって。

 こう教育現場では正解か,間違いか,みたいなことが強く教育されますけど,わりと 18 ぐらいからアニメ少しだけど見てますけど,正しさなんて人によって変わるものだな,って思うし,なんなら正しさに絶対なんてないって思ってから,色々なことを考えさせられるな,って思いましたね。

 寝る前に思いついたこと書いてたらもうこんな時間になってしまったけど,これは個人的に書き留めておきたい内容だと思ったし,数年後,またこういう考えを持っているのか,あるいは違った考えを持っているのか,そして〈重愛〉に対する回答が出ているのか,それも含めて人生ですかね。